上野駅から徒歩2分、丸井方面にあるトンカツ屋『平兵衛』は、サクッともカリッともしないが、ジューシーなトンカツを堪能できる不思議な店である。
サクッともカリッともしないトンカツについては後述するとして、この店のポリシーをまず紹介したい。
『平兵衛』の店頭まで行くと、「当店以外のとんかつ屋は傷害罪です」と書かれた看板が目に入る。嫌でも目に入る。何が何でも目に入る。玄関に大きく書かれているのだから、通るだけで目に入る。はじめてその看板を見た人は、とりあえず1歩後ずさりするだろう。女性ひとりで入るには度胸がいるし、男性ひとりでも躊躇する。
しかし、逆の発想をすることも大切だ。それだけのことを他店に言えるのだから、美味しいに違いないと。それになぜ他店が犯罪者なのか、店内に入ればわかるかもしれない。
店内に入ると、内装がとても古めかしくなっている。正直、綺麗とはいえないが、その雰囲気こそが飲食店において重要であることを私は知っている。古く不衛生な店内でも、それが味となって料理の味をグレードアップさせている事実がある。
『平兵衛』も古さが味となっている店と信じ、カウンター席に座る。座席もあるが、古雑誌や火鉢などが置いてあり、精神的にどうしてもカウンター席に座ってしまう。店員は、金髪の店主と、老婆がひとり。たまに店主が老婆をしかりつけ、かわいそうに感じることもあるが、この店では店主VS老婆のバトルは日常茶飯事らしい。
店主 油もってこい。
老婆 はい……。
店主 なにやってんだコノヤロー!! 1ケースもってこなくていいんだよ!!
老婆 ……。
店主 チッ!!
カウンター席には、黄色いパンフレットが置かれていた。タイトルは、『地球環境保護のために』と書かれている。
「トンカツ屋が地球環境!?」
……と驚きと笑いをこらえたが、その内容を読めば読むほど納得していくことばかり。その内容は、次のような内容であった。
当店以外のとんかつ屋は……
・揚げ油を使いすぎて廃油を作り出して地球環境を破壊している
・揚げ油を使いすぎて不経済なことをしている
・ひたすらコストをかけてわざわざまずくしている
・旨みを蒸発させて真っ黒に変色し劣化しきった油を染み込ませている
・廃油公害をまきちらせ、旨味を全て油の中に捨てている
・お客の健康を考えず黒く変色した油で揚げているので傷害罪である
・ちゃんと平兵衛の調理法でトンカツを作れば世界の飢餓が救済される
・保健所の基準をクリアしていないので廃業せざるをえない
うむむむむ。
今までウマイウマイと食べていたあの名店のトンカツも、そして家で揚げていたトンカツも不健康極まりないじゃないか!! 確かに、食べ物は自分の身体を作る源だ。
それが廃油で成り立っているとは信じたくない。ちょっとオカルト的なパンフレットではあるが、科学的に調査・実験したとのことで、信憑性は高い。
また、このパンフレットには、『平兵衛』の調理方法についても詳しく書かれていた。これが、地球環境も、お客の健康も、そして味も、全てがベストな調理法だというのだ。
私がカウンター席から調理場を覗いて入手した情報と共に、『平兵衛』の調理方法について解説していこう。まず、二の腕のような太い豚肉に衣をたっぷり付着させる。手馴れた動きでその豚肉を、そんなに深くない揚げ鍋にドプンと漬ける。
ここで、他店では見たことのない驚きがある。ジュワア~という、揚げ物特有の音と泡が出ないのだ。それもそのはず、揚げ油が超低温なのである。豚肉の中心温度が、75度で1分間保たれる温度に設定されているのである。170度の温度で揚げるのが普通のトンカツとすれば、100度も温度差があるではないか!! それには理由がある。揚げ油が劣化しないように低温で揚げることで、豚肉から肉汁が蒸発しないという一石二鳥効果があるからだ。……ということで、水に豚肉を浸したような感じで揚げ続ける。
まあ、そんな低温であるから、そう簡単には揚がらない。だいたい20~30分くらいで揚がるが、場合によっては完成まで40分近い場合もある。つまり、パッと食べてサッと帰りたいお客さんには向いていない。注文したが最後、強制的に食事時間を含めて50分は、この場に拘束されると考えていいだろう。
しかし、私の感想からすると、調理時間30分を待つのは別に苦痛ではない。どんなトンカツが完成するのか、ドキドキして楽しみだからである。他店では食べられない、30分間も揚げた特別なトンカツなのだ。
どう考えても美味しいに違いない。
しかし、苦痛は別のポイントにあった。揚げている30分間、店主がこちらを見ているのである。なにかしら作業をしているときもあるが、揚げている最中は店主は何もすることがないので、ずっとこっちを見ているのである。笑顔で返したらいいものか、なにか話しかけたらいいものか、ドキマギしてしまう。そんな時のために、何かしら文庫本を持参したいところだ。店内の雑誌を読むという手もあるが、あまり綺麗ではない。
今回は目を合わせないためにも、本棚の『ゴルゴ13』をすぐさま手に取り、黙々と読むことにした。なんとかこれで視線を合わせずにすむと思っていた矢先、テレビの海外情勢を伝えるニュースに対して、店主が突然いろんな言葉を発しだしたのだ。
店主 なに!! ……あいつかァ~!!
店主 そうかァ~!!
店主 シュシュッ!! そうくるかァ~!!
店主 チッ!!
店主 ヌオッ!?
店主 OK!!
しかし目線はテレビではなく、油が入った鍋に向かっている。テレビを見てはいないのだ。「シュシュ!!」とか「OK!!」とは一体どういう意味なのだろうか? 私には怖くて聞く勇気がなかった……。
そ、そうくるかって何!?
店主との無言の格闘の末、30分が経過。店主がトンカツをまな板に乗せ、食べやすくスライスする。そのとき、またもや意味不明の声を出してきた。
店主 フィッ!!
店主 シュッ!!
店主 ヌュッ!!
店主 フシュ!!
店主 イッ!!
店主 ……OK!!
切るときの掛け声が出るのは問題ない。気合の表れなのだろう。しかし、掛け声の発音が意味不明なのはちょっと怖い……。いろいろあったが、やっとのことでトンカツ定食の完成である。
みそ汁、野菜、御新香、ご飯、トンカツのセットだ。で、注目のトンカツは、まったくきつね色をしていない。30分も揚げていたのに真っ白である。想像してみよう、真っ白のトンカツ……。見た目だけでいうならば、衣をつけて油に浸してすぐに取り出した感じである。つまり、まったく揚げてないように見える。また、このトンカツはとてもブ厚い。太さは5センチはあるのではないだろうか。内部は、ほのかなピンク色をしている。
肉汁がジュワァ~と滴り、食欲をそそる。これがまずいはずがない。
さっそく食べたいところだが、まずはこのトンカツに何をかけて食べるかを選択しなくてはならない。ソースをかけるか、塩をかけるか、もしくはそのまま何も味をつけずに食べるかだ。私はまず、オーソドックスな食べ方としてソースをかけ、食べてみた。肉はジューシーでやわらかく、口の中にふんわりと旨みが広がる。
衣はサックリしておらず、ペッタリしている感じだ。低温で揚げたからカリッとしないのだろう。揚げるという行為は、水分の蒸発を意味する。つまり、ペッタリしている湿った衣は、肉汁を逃がさなかった証拠といえるだろう。
このトンカツに塩をかけて食べてみたが、ソースのほうが合いそうだ。よくグルメ通はトンカツに塩をかけるが、あれはサックリしているトンカツ向けなのだ。塩をかけるのだったら、何もかけないで食べたほうが美味しいと感じた。ここでも店主がお客さんの食べる様子を見てくるので目の置き場に注意したい。場合によっては「美味しいですか?」と話しかけてくることもある。
さて『平兵衛』のトンカツだが、実は美味しくないと感じる人が多数いるのが現状だ。特に女性が美味しくないと感じる率が高い。店に訪れるお客さんを見ても、やはり男性客が圧倒的に多く、常連さんが特に多いようだ。そう考えると、この店は万人受けする味とはいえないかもしれない。
事実として、この店の味はとんかつファンの中では賛否両論なのである。
実は私も、どちらかといえば『平兵衛』より、北区東十条『みのや』のトンカツが好きだ。しかし、無性にここのトンカツ定食を食べたくなるときがある。そんなときはわざわざ電車に乗ってまで、『平兵衛』に行ってしまうぐらいである。
日本で唯一、犯罪者じゃない正当なトンカツ屋の味を堪能してみてはいかがだろうか。……と思ったら閉店してた。
店名:平兵衛
業種:トンカツ屋
住所:東京都台東区上野6-7-13
営業時間: 11:30~13:00/17:30~21:00
定休日:月曜日
席数:10
※記事内容は取材当時の情報です